
【過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい】
とは、森山大道氏の著書のタイトルより拝借。
氏いわく
「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、
未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の
片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」
(森山大道)
ぼくの町撮りの原点は幼いころに育ったとある場所の一角、角のタバコ屋だ。
あの光景はもう見ることはできないし、撮ることもできなかった。
撮らなかったもの、撮れなかったものに対する記憶は常に自分の意識として
脳裏から離れないし、撮ったもの以上に固執した感情が渦巻いている。
またタバコ屋以外にも原風景として、輪廻の如く纏わりつくものもある。
昔の写真からいつもぼくは刺激を受けるし、まだ撮っていない場所、あるいは
もう何度も撮っている場所を再び撮ることも未来である。
そこにあるはずの光景と記憶がシンクロするまでシャッターを押せればいいなと思う。
もちろん、それが永遠に終わりのない作業だとしてもかまわないのだけれど。
ただ、いつでも写真をやめることは覚悟している。

撮影:2008.1.8 宮城県石巻市
BESSA R3A + NOKTON classic 40/1.4 SC + Kodak Tri-X
コメント
そこにあるはずだった光景と記憶が空回りする時、いつも涙目になります(現存してるほうがもっときますけど)。
子供の頃お世話になっていた床屋さんは昨秋廃業し、今は跡かたも無く、築60年のモダンな建物は雪が融けたら解体されます。「22年間ありがとう」の文字、その後、此処を集会所として利用していた人達が想いを込めて書いた文字、・・切ないです。
旧産炭地の撮影、R2A+75/1.8ではキツイですね(笑)。ウルウルしててもピントの合わせ易いFE2がいいな~。
冒頭の大道語録は「温故知新」のパラドックスとも取れますね。
“そこにあるはずの光景と記憶がシンクロするまでシャッターを押す”
この言葉、沁みました^^
あぁ、これだ。
子供の頃のあの光景、ものすごく鮮明な記憶として残っているのに、
実際にその場所へ行くとその光景はもうない、この違和感。
これがベチさんの仰る「そこにあるはずの光景と記憶の空回り」ですね。
その頃の原風景が自分の見る世界にまとわりついて、いつの間にか
その光景に近しいものを追い求めている。だから未来は常に懐かしい。
少しだけその意味が理解できそうです。
私自身は、未来より過去が長くなったことに気付いたとき
過去を大切に思ったり感謝する気持ちとともに、
これからの時間への希望や願望も強くなったような気がします。
どらえもんの道具に、「未来が写るカメラ」ってありませんでしたっけ。
未来が写ったら・・・きっと私は努力とかしなくなるかも。。。
などと、ariariさんの写真と言葉を読んでなんとなく考えてしまいました。
>ベチさん
空回りしてもきっと、また撮るんだと思います。
いつまで撮っても満足しないから、また撮って、見て・・・撮る・・・
人生なんかそんなものかもしれません。
22年間ありがとう、の集会所アップしました。いつ出そうかと・・・
個人的には唐松駅より、グッときますね。
旧産炭地、ぼくもなぜかレンジファインダーじゃなく一眼レフが多いです。
素通しで見せつけられる現実より、ボケて見えやすい方がいいのかなあ。
>d@m@さん
おそらく創造する人々、あらゆる作家活動をしている人は少なからず
温故知新というものをどこか念頭に置いているような気がします。
デザイナーで斬新なものを作り上げても、どこかレトロなテイストを感じたり。
どんなものでも年月を経れば美しく見えるような・・・
>Rufardさん
あるべくして在るはずの光景がなくても、そこに立てば経過した時間軸と、
そこに立っていた自分、その時見たもの、が写るような気がします。
というか、写せなければならないと思うのです。
失ったものは甦らずとも記憶から生み出されたものを形而上にする行為、
これこそが写真であると・・・思っているのですが・・・うーん・・・w
>mamakoさん
まだ未来の方が長いと思いますよwぼくなんか確実に未来は過去の半分以下です。
(いや1/3以下かもしんないw)
過去に感謝するのと同時に、悔いて反省し、また繰り返す・・・
物も、光景も、人とのつながりも・・・すべてにおいて感謝と懺悔の日々です。
写真を撮る行為はぼくにとって感謝と後悔と謝罪の上に成り立っています。