
昨夜福島市入りし、朝に南相馬市へ行きました。
すっかり名の知れた土地になりましたが、原発から20キロ圏ギリギリの所です。
基本的に屋内待避が望まれる地域で、一時はひっそり静まっていると聞いていたのです。
(YouTubeでの南相馬市長の動画が話題になりましたよね。屋内待避は兵糧攻めだと)
しかし、町は元気でした。幸い中心部は津波を逃れ、家屋の損傷はあったものの、
普通通りの生活がそこには戻っていました。
だからといってここでカメラを振り回して撮るというのも、本当は緊張を強いられます。
(今日は行けるところまでと警戒区域寸前まで行っています)
市内は警察、自衛隊、消防の方々が多く、ちょっとまずは色々聞いてみようかと。
今回の震災の東北六県をまとめる部隊の方とお話しし、こちらの趣旨を伝えました。
「希望が見える取材でありたい」ということ。
なるほど、ということで自衛隊さんが被災地向けに音楽隊を派遣しコンサートを開いている、と。
残念ながら今回のぼくの滞在スケジュールには合わなかったのですが、わざわざこの方が
後ほど携帯に電話頂いて詳しい話を聞かせて頂けました。
南相馬市の鹿島区、原町区の二カ所を撮影し、この画像にあるように沿岸部へ向かいました。
市内中心部とは打って変わった光景が広がっており、言葉になりません。
でも、現実をきちんと撮らねば、と気合い入れて。もちろん、現場で復旧活動をされている方から離れて。
(そのためにもきちんと筋を通して自衛隊広報の方に話をしているんです)

でも、傷んだ土地に希望が芽生え始めています。
瓦礫の中からも咲く花が・・・
撮影:2011.5.2 南相馬市
しかしまとまった休みが取れるのはこの時期しかないのです。
今朝友人から電話がありました。仙台で長くベースを持っていたパイロットの方です。
彼も、今日仙台に久しぶりに訪れる、とのこと。あの日以来やはりどうにも落ち着かない。
この機会にきちんとケリをつけないと、彼もまたもやもやした日常を送ることになるわけです。
彼が仙台にいた頃、何度か遊びに行きましたが、本当に仙台を愛し、そこに住む仲間や
友人、関係者を大切にしておりました。
彼が仙台に向かっている(新幹線から電話があったのです)と聞いたとき、きっとつらいだろうな、
と思いました。複雑な思いでその土地と向き合わねばならないわけです。
ぼくは写真が生業とさせて頂いている以上、ある程度きちんと作品も作る必要があります。
その現場の一番大きな柱が東北です。誰が何と云おうとそれは変わらないし、変えません。
町の写真は、町だけではなくそこに暮らす人がいて、生活を営んでいる光景があって完成します。
ぼくは基本的に廃墟、(という言葉自体もあまり好きじゃない)にあまり興味がありません。
撮る場合は、まだ人のぬくもりや営みが消えないうちに撮りたいと思っています。
今回震災で被災したものを撮るには緊張を強いられるだけではなく、人の目も気になっています。
ただの興味本位だとかで行けるものなら行ってみて欲しい。
震災を利用した売名で偽善だと云われるかもしれない。でも、それでいいと思っています。
作品を作ると云うことは当然カメラマンとして名を売らねば、講師業でも生徒さんが納得しません。
無名のカメラマンなんぞ生徒さんにとっても、ありがたくもなんともないですからね。
だからきちんといい写真を撮って、見せて、示す必要があるからです。
過去に撮っていない町は今回撮りません。たとえ通過中の被災地でも、過去の姿を撮っていない、
そういう場所はどんなに絵になろうと被災した現場を撮ろうとは思いません。
(本音はそんな時間がないのですけどw移動にものすごく時間がかかります)
なので今回は【福島県】南相馬市【宮城県】石巻市、女川町、気仙沼市【岩手県】陸前高田市、大船渡市
釜石市、山田町、というスケジュールです。(いや、もしかすると全部回れない可能性あります)
今日もいい出会いがありました。放射能に怯えるどころか戦っている人が。
ぼくも今日は多くの放射性物質を浴びたでしょう。まあ、どうってことはないです。
また写真を持ってここへ戻ってくる機会を頂けました。笑顔でまた会いましょう。