
ここしばらく、毎年見に行っているので見ないとなんだか落ち着かない菜の花ロード。
あまりにベタで撮り方もいい加減自分で飽きちゃっているんだけど、
そもそも「撮らなくちゃならない」という気負いがない場所でもあります。
それは、元来ぼくにとって東北は故郷であるという思い、そして会社員時代は
東北を廻る事で仕事のストレスから開放される場であったから。
今でこそ写真で飯を食う立場としてあらためて東北を撮っているのだけど、
あの頃は温泉をハシゴし、観光名所も見たり、町を歩くだけでたいした撮影もせず。
それを悔いている自分に苛立もおぼえます。
そういうことを含め、ここへ来て桜と対峙する時間が好きだったり。
一年前は被災地への取材兼ねたスタートにここに立ち寄りました。
なぜ桜なのだろう。桜から始まるのだろう…

2012.5.2 秋田県大潟村
コメント
私が桜を、というより、あらゆる植物や季節の変化を意識して認識するようになったのは
写真を撮ることを楽しむようになってからです。
ほぼ、日常的に写真を撮るようになって、はじめて自分の周りの自然の変化について
意識したり楽しみになったりするようになりました。
それまで、いかに鈍感で無関心だったか・・・
でも、今の私には、毎年必ずそこにいて、見たいと思う場所、景色が
数は少ないけれど確かにあります。
昨日、同じような事をアタシも考えてました。
やっぱ、冬~春、息吹を感じる・・・いや、感じて~取り入れて行きたいんだと思いましたわ。なんつって (笑)
桜が特別に感じられるのは、日本人のDNAなのですかねえw
私にとって、季節を感じさせてくれる花・・・と言うには言葉が少なすぎる感じがしますが・・・
う~ん、やっぱりi_nosato02さんの言うとおりDNAなんでしょう。
日本人の文化と言う言い方もアリかな?
桜が咲いてるのを見ると、綺麗だと思う一方で、憂鬱な気持ちになります。
なぜ憂鬱になるのかよく分からないのですが、すぐに散ってしまうのが分かってるからかも??
無論その散り際が美しいのですが、散ってしまったら1年経たないと見れないっていうのが焦燥感になって嫌になるのかもしれません。
桜は入学や卒業の季節ですから、節目を感じさせる一つの象徴だからではないでしょうか。
秋入学とかが本格化したらどうなるのでしょう??
田舎が松前なんで桜はちっちゃい頃から見飽きてるんだけど、
(というか桜の木には毛虫が一杯いるんでむしろ近付くのが怖かったw)
それでも懐かしくもあり美しくも感じるのは、
自分がオヤジになったからなのか、
郷愁の念からなのかは分かりませんw
ただ残念なのは、北海道は本州に比べて貧弱な桜が多いっていうことかな?
>mamakoさん
写真って色々効能がありますよね。
ぼくだって高校の頃から町を撮り、カメラマン修行中に撮らなくなって、
その後会社員になったら余計に撮る暇なくて。
(というか、カメラ比較テストやサンプルばっか撮っていたから…)
なんて言い訳ができたのも、今は嫌らしくて情けないですね。
今は子供の頃に見たもの、高校生の頃旅したまち、そういう原風景を探しています。
もう失われちゃっているんですけどね。
>jojo姉さん
きっとふとした時に「あっ、やっべー」とか思いつつ、カメラもって
「ちゃっちゃかちゃ〜〜」でしょ?w
季節は意外にせっかちですからねえ。
>ainosatoさん
ええ、パッと咲いて潔く散る。これこそが日本人の美学。
DNAや脳内辞書に組み込まれておりますw
>たいちょうさん
日本語の美しさを思えば、花を愛で、散り際に美学をおぼえる。
そこじゃないですかね。なので日本語は多用です。
桜は『散る』
梅は『こぼれる』
椿は『おちる』
牡丹は『くずれる』
というのが日本語で花の最後を使い分けるんですからね。
>kazu_hiroさん
新学期=桜の時期、というのが刷り込まれていますね。
桜の散るのを見て、ああ、儚い。また来年かあ…
それもいいですよ。また一年頑張れる。
日曜の夕方に見るサザエさんみたいなもんですw
もっとも、あっちは一週間のがんばりで済みますがw
>d@m@さん
年齢を重ねるというのはいい事なんだな、と最近つくづく感じます。
その場にたたずんで似合う年齢になったかなとかね。
墓場にも似合いそうになりましたが(ばく)。
長い間生きて来て、その時にふと振り返った時の原風景。
そういうものに触れると写真が爆発しますねw
北海道の桜、ソメイヨシノの北限、美唄透明公園今が見頃。
土曜まで持つかな??心配じゃ!(仕事で行けないw)