




ぼくにとって本来町の撮影は、自分が好きな場所をただ歩くだけの延長線にすぎない。
そこへたどり着く経緯は勿論、どこであるとか、いつなのか、ということよりも
大きな意味を持ち、好きな空間でその場の空気までも瞬間冷凍し持ち帰る。
そういうものを目指していたのだった。
じゃあ、記録としての価値観はどうなるのか、ということは結果であって、
それがきちんとした軸になるまで昇華できるかが自分の作業なのだ。
もしかするとセレクトから漏れてしまうような記憶の断片になってしまう、
そういう一枚をそろそろ見直してもいい時期なのかと思っている。
東北の事、震災の事は片時も忘れるはずはない。
だからと云って、それだけが自分の写真のすべてでもないからだ。
コメント
こんばんは。先日写真展を拝見したTakaです。
私がコメントするのがいいのだろうと勝手に思いこんで書いてます。
常連の方々すいません。スルーしてください。
日常として私たちは街に住んでいるので、街の風景はありきたりな日常だ。
だが逆に、身近すぎて見えてこない事も多いのは事実だ。
どんづまりの感性では、自分の街さえ写真にできない。
何かで、いつもの気分から開放された感覚がようやくシャッターを押させてくれるのかもしれない。
でも、そこには毎日暮らしている中で溜め込まれた日常が顔をだしたりする。
それが写真の不思議なところだ。いつも顔を出すのはどこかの自分なのだ。
自分を発見するために撮る事もあるだろう。
それが旅というカタチで、昨日までの自分と、新たな自分との違和感や安心感を混沌とした中で模索する。
それは決して画像という結実を持って、今すぐに解決されるものではないだろう。
光を固定したのはその瞬間ではあるが、過去であったり、未来への思いであったりするはずだ。
つづく
つづき
あなたの中の『東北の事』を私が理解できるはずもありませんが、
東北へ求めている思いは、少しわかったような気がしました。
また、震災関係の写真は、少なかったですが、
思い入れが強いぶん、まだハードなのかもしれませんね。
たぶん、生々しすぎるのだろうと思います。
料理でも、思い入れたっぷりの食材で作ったものが
いつも美味しいとは限りません。
普通の食材でも旬のものは美味しかったりします。
でも、食べる側はなんだかんだ言うだけで、
料理を作れる人のほうがずっと魅力的です。
食べてくれる人がいないのは、ちょっとさびしいですけどね。
毎年東北に足を運んでその地方を撮影し続けているのは、並々ならぬ思いだと思います。
そのこと自体に敬意を持って、写真展に足を運んだ次第です。
ブログは、『感性広いよなー、けっこう歳なのに・・ ブツブツ』なんてつぶやきながら
拝見しています。これからも皆さんを楽しませてください。
一枚目の”エレファントマン”の存在感、好きですね^^
四枚目のマスク、自分も好きな被写体で、みつけたら間違いなく写すでしょう(笑)
こうして並べられて、まるで打ち首の晒し首のような雰囲気を写しているようで凄いです!
>Takaさん
ご丁寧にありがとうございます。写真展へのご来場も重ねて御礼を。
本来ぼくにとっての「まち」はたとえ旅先であっても日常を逸脱させぬよう考えています。
普通にまちの方と挨拶を交わし、商店で缶コーヒーを買い、一服し、また歩いて。
それは道内でも変わらない所ですが、とりわけ自分の原風景が東北に多いという事です。
今回の展示は昨年の70点から被災地の絵を減らし、いつもの東北の顔をメインに。
それは、復興を願うということも根底にはありますが、復興というコトバより、
何よりも日常であること、平常であることを願う事です。
写真で一番偉いのは被写体であり、それを一番気にして撮ります。
感性が広いかどうか自分ではわかりませんが、歳と感性は無関係ですw
ありがとうございました。
>本部長さん
エレファントマン好きな方が反応頂いて嬉しいですw
マスクとか人形ってのは人間の代弁者なのだと思っています。
コトバは発せずとも、見る方がちゃんとそれぞれの思いで形になりますね(^^)